遠くにありて 7

 

 新次郎の母親、双葉は、今でも日々の稽古を欠かした事がない。
長く顔を見ていなかった弟が、突然訪ねてきたのはそんなある日の昼だった。
いつものように午前中のあいた時間を利用して、道場でひとり自らを鍛えていた双葉が、
そろそろ戻って昼食にしようかと考えていた時、玄関から懐かしい顔が覗いた。

 「久しぶり、姉さん」
「おや、めずらしいじゃないか」
腰に手をあて、堂々と笑う姉の姿の前で、大神は心なしか背中が丸まってしまう。
どうもこの姉には頭が上がらないのだ。
「なんだ、元気がないな、先に家に戻って茶でも飲んで待っていてくれ。着替えてくるから」
双葉はタオルを手に取り、額や首筋の汗を拭うと、大神が静止する間も無く大股で歩み去ってしまった。

 「はあー……」
盛大に溜息をつくと、姉に言われたとおり、彼女の家に戻って玄関を叩く。
出てきたのは家事手伝いの年配の女性。
「まあ、一郎さんじゃないですか、お姉さんなら道場の方ですよ」
この女性は、双葉の弟である大神を良く知っていた。
大神の友人である加山共々、双葉にしごかれて伸びているのを何度も世話していた。
だから大神は姉だけではなく、この女性にも頭があがらない。
「ええ、今顔を出してきました。姉さんにこっちで待っているように言われて」
「あらあら、じゃあ中へどうぞ、旦那様はもうお仕事でいらっしゃいませんから、楽になさってらして」
そう言って差し招く。

 通された客間で、大神は姿勢を正して姉を待っていた。
目の前の茶が徐々に冷めていくが、一向に双葉は現れない。
10分経ち、20分経ち、30分が経った頃、ようやくやってきた姉は豪快に笑っていた。
「いやー、待たせた待たせた! 着替えるだけのつもりだったんだがつい風呂に入ってしまってな。稽古のあとの風呂はやはりいい」
「はあ」
散々待たせてもまったく悪びれる様子はない。
「それでどうした、用もないのにお前が私の所に来るわけないもんな」
悪戯っぽく笑い、大神の顔を覗き込む。
「恋の相談か? ん?」
「ち、違います! 新次郎の事ですよ!
新次郎の名前を出すと、双葉は急にきょとんとした顔になった。
続けてパッと顔を輝かせる。
「帰ってくるのか?!」
「い、いや、そうじゃないんだけど……」

 大神はなんと切り出したらよいかわからずに頭を掻く。
この姉は、一人息子である新次郎を溺愛している。
一見、厳しくしているように見えるが、その実、とことん甘かった。
新次郎自身が、わがままを言ったりする性格ではなかったので気が付かないだけだ。

 「あのさあ、姉さん、新次郎が子供の頃って、かわいかったよな」
「ん? なんだ急に、そりゃあかわいかったさ、いつもニコニコしちゃって……」
男勝りの姉の顔が、急に蕩けたようになる。
「おかあさん、おかあさん、っていつでも後をついてきちゃってなあ、泣き虫だったけどそこがまた……」
「今、子供の新次郎に会えるなら、会ってみたいと思ったりする?」
「ん? そんな事考えた事もないな、新くんは今でも十分以上にかわいいし」
きっぱりと言って、双葉は満足そうに頷いた。
新次郎を、自分が生み出した傑作だと信じきっているのだ。

 「実はねえ、姉さん……」
「じれったいな、なんだ、さっきから」
「実は、新次郎が、ちょっとした事故で子供に戻っちゃったんだ……」
「はあ?」
弟が突然意味のわからない事を言い出したので、双葉は怪訝な顔をする。
「だから! 新次郎が子供になっちゃったんだ!」
ムキになって訴えるのだが。
「あっはっはっ! そんなわけないだろう。新くんは、先日ハタチになったばかりだぞ」
屈託なく笑い、全然信じていない。
「だから事故で……」
「そんなわけのわからない事言って、本当の狙いはなんだ? ん?」
探るように見つめてくる姉に大神はほとほと困り果てた。

 「帝都からちょっとした薬を送ったんだけど、その用法を間違ったせいで子供に戻ってしまったんだよ」
「……。本気で言ってる?」
「本気です!」
やけになって叫ぶと、ようやく双葉は少しずつ信じ始めたようだった。
大神はチャンスとばかりにいままでの経緯を四苦八苦しながら話す。

 「ふうん……、新くん、本当に子供になっちゃってるのか……」
「そうなんだ。通信でって事になるけど、帝都に来て、会ってやってくれないかなあ」
大神の提案に、双葉は顎に手をあて考えている。
「新くんが子供に……」
「……申し訳ないと思ってるよ、でもそのうち戻るから」
「かわいいだろうなあ」
「ああ、かわいいと思う……って、姉さん!」
うっとりとした表情の双葉に向かって大神は大声をあげた。
この姉は、まったく事体の異常さに注意を向けていない。
ただ子供の新次郎を思い浮かべて嬉しげだ。

 「もちろん行く!」
双葉は宣言すると立ち上がり、廊下に向かって声を出す。
「おーい。出かけてくるから、留守を頼む!」
「今行くんですか?!」
大神は驚いて姉を見た。
「あったりまえじゃないか、新くん、寂しがってるんだろう? ぐずぐずしていられるか」
そう言っている間に、さきほど大神を迎え入れてくれた女中の女性がすかさず荷物を持ってくる。
「奥様、急ですのでお着替えしか入っていませんが……」
着替えだけでもこのスピードで用意したとは驚異的だ。
「かまわない。ありがとう、留守を頼んだ」
「はいはい。いつごろお帰りですか?」
「うーん、わからないな……。目処がついたらあとで連絡するって、旦那に言っておいてくれ。ではいくぞ、一郎」
「は、はい」

 超行動力のある姉に翻弄されながら、大神は幾分安堵していた。
新次郎を子供にしてしまった件について叱られるかもしれないと思っていたからだ。
とりあえず、姉は新次郎にあえる喜びで、その辺の事を忘れているようだったから、
原因について思い出さないように、あとは慎重に会話を進めていくだけだ。

 

TOP 漫画TOP 前へ 次へ

旦那も見てみたいです。

 

inserted by FC2 system