病院の怪談 12

 

 病院の屋上に立ち、昴が呆然としたのは一瞬のことだった。
一瞬とはいえ自失してしまったのは、突然の転移が昴にとってまったくの予想外であり、なんの予兆も感じられなかったからだ。
隣で笑っている少女は相変わらず天使のような容貌で満足そうに昴を見上げている。
「ね、もっとあそぼう、いところがあるんだよ!」
「いいところ?」
わずかな緊張を少女に悟らせないよう慎重に答えた。
さっきまでは少女の存在があまりにも希薄で何の気配も感じられなかったため、もっと簡単に事態を収拾できそうだ、などと考えていたけれど、今の状況は非常にやっかいだった。
うかつに少女の要求に是と答え続けてはまずいことになる。
見た目よりもずっと危険な相手だと、昴は認識を変えていた。
「それはどこ?」

 どこかという昴の質問に、少女は眉を寄せて考え込んでいた。
「よくわかんない」
自分が向かう場所がどこだかわからないという。
「でも多分いつもひとりぼっちなんだ。なんにもなくて、だれもいないとこ」
昴の手をぎゅっと握る。
「誰かが一緒にいればきっとたのしい!」
「それがいいところだとは思えないな。僕は遠慮する。入院中の身だし、そろそろ部屋に戻って眠るよ」
きっぱりと断ってみたが、少女は昴の手を離さない。
「そんなこといったってもう遅い」
抑揚の無い冷たい声に、昴は目を細めた。
少女の足元の異変に気づく。

 足先から徐々に、彼女は消失しつつあった。
彼女自身と同じく、なんの気配もないままに。
そして恐ろしいことに自分の足先もわずかに輪郭がぼやけはじめていた。
「離せ!」
怒鳴って、つかまれていた片手を振りほどこうとしたが、少女のやわらかだった手のひらは鋼鉄に変じたようにビクともしなかった。
クスクスと少女らしい甲高い声で笑い、昴を哀れむような視線をよこした。
それから何も知らない子供を苦笑しながらあやす大人のように、しょうがないな、という調子で肩をすくめた。
「こわくないよ。いつもこうなるんだ。朝になる前にだんだん消えて、あしたのよるにはまただんだん出てくるの」
「君は……」
驚きと共に、昴はその原因を即座に理解した。
この少女を生み出している現況と思われる子供、その子供の眠りが浅くなってくると少女は消える。
今、足の先と同じく、少女の細く白い手も、わずかずつ消失し始めていた。
少女だけではなく、昴の手のひらも、じわじわと侵食されるように消えていく。
彼女は明日になればまたこの病院に現れるだろう。
しかし自分はどうなのか。

少年の投影した幻である彼女と消え、そして。

二度とは戻れないのではないか。

少年は少女の夢を見るが、昴のことを夢見ることはない。

 背筋に冷たいものが流れた。
手を離そうにも、もうすでにその手が消えてしまっている。
そしてさらにハッとなる。
大河はこの事件を明日中に解決してしまうかもしれない。
そうなれば少女も二度とは現れず、もちろん自分も。

 昴は今まで「恐怖」という感情をほとんど知らなかった。
過去に、一度だけ。
愛する男が敵の矢に倒れ、生死のふちをさまよっていたとき、絶えず感じていたものは胸を押しつぶすような恐怖だった。
それ以外で何かを恐れたことは無かったはずなのに。
「大河!」
思わず叫ぶ。
このまま、消えてしまうことには耐えられなかった。
まだ何も、何もしていない。

彼とともに、まだ、なにも。

いなくなった自分を探して必死になる大河を想像し、昴は胸が締め付けられた。
このまま彼を置いていくなんて絶対にいやだった。
気づけばもう腰まで消えてしまっている。
「戻せ! 僕はいかない!」
残っている手で少女をゆすったが、彼女は目を閉じ、すでに意識がないようだった。
「新次郎!」
もう一度叫ぶ。
今日は大河が来る日でないことは十分知っていた。
けれど彼の名前を叫ばずにいられなかった。
胸まで消失すると、同時に意識も薄くなってきた。
思考が途切れ、残る意識で考えられるのは一人の男のこと。
最後に心の中で謝罪する。
簡単な任務だと思っていた。
たわいの無い、どうということのない。
まさかここで終わってしまうなんて。
許して欲しい、と考えて、それきり昴の意識はふっつりと途切れてしまった

 

 

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 思わぬ強敵でした。

 

 

 

 

 

 

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