五章 ―誘拐2―

 入場が始まると、売店にもカフェにも客が入り始める。
休憩時間や、公演が終わった後に比べればずっと人の出入りは少ないが。
 本当はこの時間も、新次郎にはカウンター内にいて欲しいと言うのが、昴やプラム、杏里の考えであった。
しかし休憩時間と違って、入場から開演までは一時間以上の時間があったため、やはりテーブルに着いておかせる事にしたのだ。
そんなに長い間、小さな子供に狭いカウンター内で、一つの椅子にじっとしていろと言うのは酷な話であったから。

 新次郎は一人、カフェの一番隅っこのテーブルで、子供用の背の高い椅子に座って絵を描いていた。
そこに、小太りの中年男性が近づいて、新次郎に話しかけてきた。
「ぼうや、一人かい?お母さんやお父さんは?」
新次郎が返答に窮していると、男性は彼の正面に腰掛け、続けて話しかけてきた。
「こんな小さな子供を放って置くなんて、いけないお母さんだね」
今や新次郎は完全に困惑していた。知らない人と会話をしてはいけないと言われているし、
昴がやむにやまれず自分をここに預けた事を知っている。
まったくの他人が突然自分と同じテーブルに着いた事もわけがわからなかった。

 「その子はシアターの関係者なのよ」
新次郎に話しかける男性に気付いて、プラムがカウンターから助け舟を出した。
「だから心配しないで大丈夫」
ふうん、と、男は気のない返事をした。
「じゃあ、将来はスタアかな?未来のスタアに飲み物を一杯奢らせてくれるかい?」
またしても新次郎に話しかける。

 新次郎は首を振った。いらない、と言う意思表示のつもりだったのだが。
「ミルクでいいかな?」
男はカウンターまで飲み物を注文しに行ってしまった。
「あなたが注文するなら料金はちゃんと頂くわよ」
プラムは男にミルクを手渡してウインクした。
悪い人物には見えないし、家族連れや、恋人達で賑わうこの場所に、
一人でポツンと座っている幼い男の子に同情して、やさしく話しかけるのはそんなに奇異な事ではない。
事実、前日も新次郎に話しかけて来る客は何人か存在した。

 ミルクを新次郎の前に置くと、男はファミリーが待っているから、と、立ち去った。
新次郎はほっとして、自分が緊張して喉がカラカラになっている事に気が付いた。
目の前のミルクを一気に飲む。
かなりの量を。

 開演して20分ほど経った頃、杏里は、新次郎がどうやらトイレを我慢していると気が付いた。
フロアに誰もいなかったので、新次郎と杏里とプラムの3人で、ひとつのテーブルに座っていたのだが、
新次郎はどうも先ほどからもじもじと落ち着きがない。
「新次郎君、おトイレ、行きたいんじゃないの?」
杏里は通常時の大河新次郎を名前で呼んだことはなかったが、こんなに小さな子供を[大河さん]とは呼び難かったので、
小さい間は名前で呼ぶ事にしたのだ。
新次郎は頷いて椅子から降りた。
「おといれ、いってきます」
シアターのトイレにはもう何度も一人で行っている。
「はい、いってらっしゃい。ちゃんと手を洗ってくるのよ、タイガー」
二人はトイレに向かう新次郎を見送って、お互いに興味あるゴシップについて会話を始めた。
恋愛の事や、新しいレストランの事、ちいさくなってしまった大河新次郎の事。
結構な数の話題を消化して、ふと気が付く、

 新次郎がなかなか帰ってこない。

 

 

 

 シアターの一般客用のレストルームはかなりの広さがあり、個室も15を越える。
幕間に一斉にトイレに押し寄せる客を、休憩が終わる前までに消化するためだ。
新次郎がトイレで用をたして、洗面台で手を洗おうと背伸びをしていると、
個室から二人の男が出てきた。
一人は先ほど新次郎にミルクを奢ってくれた男性で、
もう一人は、上質なスーツを着た紳士風の男。
洗面台になかなか手が届かない新次郎を見て、スーツの男は彼の後ろに立つと、
「ぼうや、手が届かないならおじさんが持ち上げてあげるよ」
そう言って、新次郎の背中から手を回して抱き上げた。
突然の事に驚いて、思わず新次郎はキャッと小さく悲鳴をあげた。

 「ぼ…ぼく、だいじょうぶです、おろしてください」
めったな事では他人に話しかけない新次郎だが、抱きかかえられて恐ろしくなったのだ。
一生懸命訴えたつもりだったのだが、男は彼を放さない。
仕方なく手を洗い、
「ちゃんと洗ったかい?」
と、やさしく聞いてくる男に頷いてみせる。
「それは良かった。汚いままじゃ問題アリだからね。おい、早くしろ!」
 前半は新次郎に声をかけ、後半は連れの男に向かって怒鳴った。
それと同時に、先ほどまでやさしく抱き上げていた彼の体を、身動きできないようにきつく押さえた。
新次郎は男の行動に驚いて、身をよじって離れようとしたが、
がっちりと自分を抱える太い腕に、どうする事も出来ない。
新次郎が暴れだすと、男は騒がれないように彼の口を手で覆った。
「その薬だ!とっととやらないか!このグズ!」

 ただならぬ二人の様子に、新次郎は幼いながらも、己の身に重大な危険が迫っているのを感じた。
強く押さえつけられた胸が痛かったが、可能な限り大暴れして、後ろから自分を抱える男を蹴っ飛ばす。
不意に口を塞いでいた手が離れた。
「たすけて!」そう叫ぼうとした。
だが今度は手ではなく、大きな布で顔全体を覆われてしまう。
刺激臭。
これは吸い込んではいけない物だ!一息吸っただけで本能的にわかった。

 だが、そう考えている間にも、たちまち目の前が暗くなり、次の瞬間にはもう、新次郎は男の腕の中で意識を失っていた。

「まったく、もっと段取り良くできないのか?」
蹴飛ばされた足をさすり、いまいましげに部下を見る。
「おい、すんだぞ、一人入って来い」
ドアの外で待機している残りの二人に声をかけ、持って来させた荷物をあける。
手際よく新次郎の服を脱がせて、ゴミ箱に放り投げると、部下の一人が声をかけた。
「この服、ここに置いて行くんですか」
「あたりまえだ」
計画では、このゴミ箱に、子供の衣類と一緒に脅迫状を置いて行く手はずだ。
遅くとも、公演が終わってしばらく経った2時すぎには、清掃のためにゴミ箱を開けるだろう。
「でもこれ、すごく高価な…」
「黙れバカが」
たしかに子供が着ていた服はどれも高級なブランド品で、自分のひと月分の給料が一着買っただけで飛んでいくような代物だった。
九条昴はたしかにこの子を愛している。身代金を払うことに躊躇はすまい。

 もっとも、払ったところで子供を返すつもりはなかったが。

 「靴が合わない」
ドレスを着せてカツラをかぶせた所で、気が付いて、衣類を用意した男を睨む。
叱責を覚悟して縮こまる部下をみやり、
「まあいい、靴ぐらいなら気が付かないだろう、こっちの靴は服と一緒ににゴミ箱に放り込んでおけ」
男の腕の中でぐったりしている男の子は、今や金髪の少女にしか見えなくなっていた。

 小太りの部下が、そんな新次郎を見て、同情的なまなざしを向ける。
「こんなにかわいい子が攫われちまったら、親は半狂乱になっちまうんじゃないですかね」
こんな育ちの良い、キレイな子じゃないけれど、うちにもガキがいるからわかります。と、複雑な表所をした。
リーダーの男は鼻で笑うと、
「俺たちも日々の生活と自分の命がかかっているんだ。それにお前、自分でこの子の飲み物に薬を入れたくせに。まったく良く言うぜ」
と、嘲った。
ますますシュンとなる部下を放って置いて、
リーダー格の男は、最後の仕上げにゴミ箱に入れた新次郎のシャツをもう一度取り出すと、胸ポケットに脅迫状を差し込んだ。
「悪く思うなよ、お姫様」
声をかけて新次郎を抱きかかえなおすと、男は部下達に命じた。
「あとは手はずどうり、公演が終わってから他の客と一緒に帰って来い。
もっとも途中でゴミ箱の中身に気が付けば、そこで舞台は中止になるかもしれないがな」
そう言い置いて出て行った。

 公演の途中で熟睡してしまった娘を抱いて、シアターを去る気の毒な父親。
堂々とフロアを横切って出入り口に向かう。
途中ドアマンと一言二言会話をしたが、何も問題らしいことは起こらなかった。
シアター全体を見渡せる場所に立つと、男は意識のない新次郎に声をかける。
「ママにお別れをしな、もう会えないんだからな」
当然、子供からは何の反応も返って来なかったが、男は少しの間そこに留まりシアターを眺めていた。
それから再び歩き出す。すべては計画道理に。

 


男は新次郎を手に入れた。

 

 

 

 

やっとこ序章へ繋がりました!わーい終わった!(違
誘拐以降の予定が全部UPしてあるので結論はお分かりでしょうが、
安心しつつハラハラして頂けると幸いでございます。

TOP 漫画TOP 前の章へ 次の章へ

早く助けて〜

inserted by FC2 system