2章 ―舞台初日―
「新次郎、ちゃんとおとなしくしているんだぞ」
言い聞かせて、新次郎のやわらかな頬にキスをする。
今日は舞台の初日であり、シアターの前は早朝から列をなす人々で溢れていた。
前日は体調を崩して寝込んでいた新次郎だったが、今日は平熱に戻り、
いつものクリクリと動く大きな瞳で昴を見上げ、
「あい!すばるたん!」
と元気良く返事をした。
普通に返答されただけなのに、こんな風に名前を呼ばれると離れがたくなり、
ついもう一度、桜色の頬にキスをしてしまう。
昴は、自分がこの子をどんなに大切に思っているか、自覚しないわけにはいかなかった。
(バカみたいに夢中になっている)
苦笑して昔の事を思い出す。
大河新次郎。彼が本来の姿の時もそうだった。
自分の変化に気が付いたのはもう大分前の事だ。
愚か者のようにうろたえたり、やたらと興奮したり、どうやら嫉妬さえしているようだった。
そんな状況をどうにか打開したくて、因子である彼のことを思うと、ますます落ち着きがなくなって、考えがまとまらなくなる。
それを心地良く感じる己にまた苛立って。
そんな自分をようやく受け入れたばかりだと言うのに。
(どうやら僕は、彼を自分の子供のように感じているようだ)
またしても大河新次郎。
彼はとことん九条昴という人間を変化させるつもりのようだ。
今までになかった感情に名前をつけるのは難しい。
しかし今回は対象物が幼子とわかりやすかったので、あっさりと結論づける。
(母性愛だな)
以前の昴であったなら、その感情を拒絶し、決して受け入れる事はしなかったであろう。
でも、今は違う。
大河に出会って九条昴はあらたな段階に進化したのだから。
(…悪くない)
恋愛とはまた違う、穏やかで暖かな気持ち。
かわいくて大切で愛おしくて、少しでも姿が見えないと、もう心配で。
いつまでも新次郎の前から動かない昴を見て、プラムは声をかけた。
「ねぇ昴、大丈夫よ、ちゃんと見てるから」
彼女は新次郎を抱きかかえ、彼に向かって極上の笑みを浮かべた。
「おりこうさんにしているわよね?リトルタイガー?」
新次郎は彼女を見つめ、とまどいながらもうなずいた。
いまだに彼は、昴以外の人物に抱き上げられる事に馴染まない。
無口になるし行動も硬くなる。
昴は、そんなささいな点がまた、愛おしいと感じてしまう。
数日前からシアターでは、舞台初日を迎えるにあたっての、新次郎の処遇が問題になっていた。
託児所に預けると言う案。
屋上施設に置いておくと言う案。
売店とカフェで交互に見ると言う案。
託児所に預けると言う案は、星組のメンバーの多くが賛成したが、
昴は首を縦に振らなかった。
誰とも知らない相手に新次郎を預ける気にはとてもなれない。
それに託児所はシアターから結構な距離があり、
舞台が終わってもすぐに会ってやる事はかなわないだろう。
屋上施設に放って置くこともできなかった。
サニーもラチェットも個々に仕事があり、つきっきりで見ているわけにはいかないし、
屋上には危険な場所も少なくない。
プラムと杏里に任せるという最後の案は、多少問題があったが一番マシであった。
開演中は売店もカフェも、ほとんど客が来ない。
カフェのテーブルで本を読んだり落書きをして過ごせば良い。
プラムからも杏里からも良く見えるはずだ。
問題点は休憩時間だ。
幕間の休憩時間は2回で、それぞれ20分だったが、その間だけはカウンターの中でおとなしくしていてもらう、
と言う結論に至った。
「それじゃプラム、申し訳ないが頼むよ」
彼女の腕に抱かれた新次郎を見つめる。
「心配しないで、早く行かないとメイクも衣装も間に合わなくなっちゃうわよ」
頼むと言いつつその場を動かない昴をけしかけて、新次郎をカフェの端っこの席に座らせた。
「おねえさんと遊んでいようね、ね?リトルタイガー」
その様子を眺め、たしかにもう開演まで時間がない事を確かめる。
もう入場が始まろうかという際どい時間になってしまっている
「終わったらすぐに迎えに来るから、彼女の言う事を聞くんだぞ」
「あらだめよ、終わってすぐ、なんて。
お客様がいっぱいいるのに、昴が出て来たりしたら大混乱になっちゃうわ」
しかし客が引けるのを待っていたら、なかなか迎えに来てやる事は出来ない。
「では舞台が終わる直前に、サニーを迎えにやらせよう。」
それぐらいの労働はしてもらわないと割にあわない。
そもそも今回のことはサニーサイドが原因なのだから。
話がまとまった所で、もういよいよ時間がなくなってきた。
昴は新次郎を抱きしめて、三度目のキスをし、思い切ってその場を離れた。
「いってらっしゃい、すばるたん」
去っていく昴に新次郎は声をかけた。
新次郎は最初から、いつでもしっかりと挨拶をした。
彼の本物の母親の、暖かな教育が身についているからだ。
手を振る新次郎に、笑顔で手を振り返す。後ろ髪を引かれる思いで再び歩き出しながら考える。
(本当に彼に夢中になっている)
早足で楽屋に向かいながらつい笑ってしまう。
(だが、やはり…悪くない)
初日は大盛況で幕を下ろした。
何も問題は起こらなかったし、新次郎は言いつけをきちんと守っていた。
だから翌日、酷い事が起きるとは誰も考えていなかったのだ。