魔女と神と氷 5

 

 ごうん、ごうん、と、低く、エンジンの音。
さっきまで聞こえなかったそれが、徐々に脳内に響き始め、昴はかすかに目を開ける。 
体は起こさなかった。
目の前にある大河の顔が、まだ深く眠っていることを伝えていたから。

 エイハブの内部、隊員に与えられた個室で、昴は首をめぐらせた。
時刻が知りたかったからだ。
けれどもあいにく時計は、昴の背側の壁に設置されており、起きなければ見る事がかなわなかった。
船内にはほとんど窓がなかったし、当然、隊員の部屋にも窓などなかった。
普段だったらなんとなく、朝の何時ごろだろうと見当がついたけれど、昨晩はそもそも眠ったのが規格外に遅かったし、昼は長いダンジョンから帰還したばかりで、決戦の疲れを引き摺って、とても通常の状態とはいえなかった。
充分に眠った感覚はあったけれど、何時なのかはさっぱりわからない。
体を起こそうか、と何度か思ったけれど、大河の気持ちよさげな寝息がそれを躊躇わせた。
「相当、疲れていたんだろうな」
大河は何も言わないけれど、おそらく、精神的にも相当に疲労していたに違いなかった。

 永久凍土の中に作られた、底知れぬダンジョンに、大河は挑んだのだから。
叔父の部下を預かって、ひどく緊張していただろう。
そっと額に触れると、眠っているせいで普段よりも少しだけ体温が低かった。
「もっと眠っていて良いからね」
昴は意を決し、彼を起こさないよう細心の注意を払いながら身を起こす。
ようやく確認できた時刻は、まもなく昼の12時を告げるところだった。
さすがに驚いたが、誰も起こしに来なかったところを見ると、他の隊員も似たり寄ったりの状態なのだろう。
ベッドから降り、なるべく音を立てずに顔を洗って服を着替える。
簡易式の洗面台は、ベッドのすぐ横だったから、大河が起きてしまうかもと危惧したけれど、彼は眠ったままだった。
ほっとして、これからどうしようかとしばし思案する。
大河の着替えを持ってきてやらないと、彼を寝巻きのまま廊下に出すには少々時刻に問題があった。
昴は細心の注意を払って扉を開き、静かに部屋を出た。

 廊下に出ると、体の芯に響く、エイハブのエンジン音がさっきよりも明瞭に聞こえた。
低く伝わるわずかな振動。
どこに向かっているのかわからなかったが、おそらく巴里だろうと昴は予想する。
氷の大地から巴里に戻り、巴里花組と別れた後、帝都へ。
そのあとなつかしの我が家、紐育へ帰るのだろう。
大河の部屋で服を手に入れ、自室に戻ると、大河はまだすやすや眠っていた。
さすがに苦笑して、起こそうかと悩んだが、結局そのままにして、昴は再び部屋を出る。

 

 風を感じたかった。
外の空気を。
長くダンジョンに篭もり、外気の気持ちよさを忘れかけている。
デッキにあがり、外の空気と呼ぶにはいささか激しい風に煽られる。
ダンジョンとは比べようのない開放感。雲の上の碧空はすばらしく美しかった。
冷たい風が髪を乱す。

 昴は柄にもなく、大声で叫びたい衝動に駆られた。
叫び声にすべてを乗せて、吹き飛ばしてしまいたいと。
けれども実際には、己を苦笑して乱れた髪をかき上げたのみだった。
デッキの手すりに身を預け、まぶしい太陽に目を細めた時。
「昴さん!」
声をかけられて、昴は笑って振り返る。
「ようやく目が覚めたのか」
「探しましたよ! 昴さんが、どこか、……どこかに行っちゃったかと……」
「馬鹿だな、飛んでいる船からいなくなれるわけがないじゃないか」
「でも……」
いいつのる大河は本当に不安そうだった。
手を伸ばすと、きつく抱きしめてくる。

 「どこにもいかないよ」
「約束ですよ!」
怒っているような勢いで言って、それでも、昴を拘束する腕は緩まない。
「目が覚めたら昴さんがいなかったから、ぼく、心配で……」
「ふふ、君が寝坊だからだよ」
昴が笑うと、ようやくすこしだけ腕が緩む。
だから昴は大河に抱かれたまま向きを変え、二人でエイハブから見える幻想的な景色を眺めた。

 デッキから見える雲上の景色は、まさに神の造詣のように美しかった。
太陽の光をあびて黄金色を反射する雲の海。
複雑な藍が空の深さを伝えてくる。
大河は強い風から昴を守るように抱いていた。
「……ジャンヌは、あの向こうに、行ってしまったんですね……」
「ああ。でも彼女はきっと、彼女のもっとも望んだ場所に行けたんだ。ずっと行きたかった場所へ」

 愛する男の腕の中、昴は雲の海を眺める。
今この瞬間、死んでしまえたら。ジャンヌがそうできたように。
それは恐ろしい願望だった。
昴は大河に気付かれぬよう、かすかに首をふり愚かな願いを振り払う。
たった今、どこにも行かないと約束したばかりではないか。
それにだいいち、本当に今自分が命を絶ったなら、大河は永遠に悲しむだろう。

 彼が嘆き悲しむ幸福などいらない。
ずっと、大河が幸せなまま……。そんな世界を……。
昴は目を閉じる。
けれども一つだけ、どうしても譲れない望みがあった。
「大河。頼みがあるんだ」
「なんですか?」
君の腕の中で死にたいのだと、ジャンヌがうらやましいのだと。そう伝えたかったのだが、目を閉じ、己を自制する。

 「――僕より先に死なないでくれ」
まばたきをする大河にしがみつく。
「約束できるか? 大河」
「昴さん……」
「一分でも、一秒でも、僕よりも長く生き延びると、そう約束できるか? 大河。……大河新次郎」
ぴったり密着していたので顔は見えなかったが、大河が頷いたのがわかった。
筋肉がひどく緊張していて、彼が本気でそれを誓った事もわかる。
「充分だ。……ありがとう……」

 彼に精神的な負担を強いる事になるだろう。
大きな縛りを、……一種の呪いを。
けれど昴も改めて自身に誓う。一分、一秒でも、彼より長く生きたりしないと。
たとえ一瞬でも、彼のいない世界に耐えられない。
悲しみに耐え切れず暴走した力は、おそらくジャンヌなど比較にならない被害を世界に及ぼすだろう。
ジャンヌのように人々への愛など微塵ももちあわせず、ただすべてを消し去りたい衝動にかられるのだろうから。

 これからしばらくは、各所への報告や、世界各地を襲った事体の収拾で休む暇もなくなる。
けれど今だけは、永遠とも言える静かな時間を、共有している。
遮る物のない日差しと、お互いの温もりが、冷たい風の勢いを払拭し、寒さなど感じなかった。

 

てんてん様のキリリクでした。
お姫様抱っこされるジャンヌに嫉妬する昴さん、でした。
コミカルな話にするつもりが、思いがけずシリアスになってしまいました。

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大事な人とずっと一緒にいたいって誰でも思いますよね。切ない。

 

 

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