ぼくのひかり 君の青空 24

 

 「食べられる……?」
「は、はい」
部屋へと届けられたオートミールを真ん中にして、
昴と大河は向かい合ってテーブルについていた。

 昴は彼にスプーンと食事の入った皿を持たせて様子を見守っていたのだが、
大河はぎこちない動作でオートミールを掬ったものの、そのまま動きが止まってしまった。
食べ物を前にして明らかに顔色が青ざめて来ているし、昴は心配だった。

 大河はスプーンの先端の重みに意識を集中していた。
食べ物の匂い。
それが今自分のすぐ前に漂っている。
見えないことで余計に匂いが強烈に感じた。
食べなければ、食べなければと念じるものの、口元にそれを運ぶ事ができなかった。
嫌というよりも、どうしていいかわからない。

 昴は励ますつもりで声をかけた。
「……とろみのついた水だと思えばいいさ」
さっき彼は水ならなんとか飲めた、と言っていたからそう提案したものの、
昴自身そんな極論は通じないだろうと思っていた。他にどう言っていいかわからなかったからだ。
「どうしても無理なら先生が点滴を……」
電話をして栄養剤を持って来てもらえるように伝えてある。
無理に食べて嘔吐しては余計に体力を消耗してしまうから、辛いようならやめても良かった。
だが、昴が最後まで言葉を言い終わらないうちに、大河はえいっとばかりにスプーンを咥えた。

 飲み込む、という行為を大河は思い出せずにいた。
体は口の中に入ってしまった食べ物を、すぐに吐き出せと命令し始めている。
それを無視してなんとか口内に留めていても、飲み込むことが出来ない。
昴が心配そうにこちらを伺っている気配。
大河は思い切って口の中に入っている物を一気に嚥下した。

 喉がごくんと蠢いて、彼が食物をようやく喉に流す事ができたのだと昴にもわかった。
ただ、口の中に入れた量に対して、喉の動きはやけに大げさだったのが気になる。
「うっ……!」
大河が口を押さえたので昴は慌てた。吐きたいのだろうかと思って急いで立ち上がる。
「へ、平気です!」
昴が席を立った気配を感じ、大河は手を伸ばして静止する。
「空気も一緒に飲み込んじゃって……。ううっ……」
「そうか……。落ち着いて、ゆっくり食べるといい」
昴は大河の正面に座っていたのだが、彼の隣に座りなおして背中をさすってやった。

 一口飲みこむと調子が出てきたのか、その後はスムースに皿の半分ほどを食べた。
「も、もうおなかいっぱいです」
「うん。沢山食べたね。良かった……」
昴は心からそう言った。本当に彼が何日も何も食べていなかったとしたら確かにこの辺りが限界だろうと思っていた。
胃が縮んでしまっているせいで食が細い。
そんな事は健康になればいくらでも元に戻せる。
「まだ沢山残ってますよね?」
「気にしないで」
昴は彼が無理に食べようとする前に、大河が手に持ったままの食器を奪った。
強引に食べて戻してしまっては意味がない。

 大河も大人しくそれに従った。
全部食べるのは無理だと自分でもわかっていたし、とても疲労していたから。
「すいません、少し横になってもいいですか?」
「ああ。一人でソファまで行ける?」
そう聞いたものの、昴は彼の腕に触れて歩くのを助けた。

 大河の目が見えなくなってから、二人は大分お互いの役割や動きに慣れて来ていた。
大河は記憶にある部屋の配置を可能な限り自力で歩き、昴はそれを少しだけサポートする。

 今も昴は彼の腕に触れてはいるが、ひっぱったりはしていなかった。
大河の動きに合わせて無理なく誘導し、危険な物から遠ざけて歩く。
ソファにたどり着いて、食事の前と同じようにぐったり横たわる大河を見るとまた心が波立ったが、
さっきとは状況が違うのだから、と自分を叱咤する。
今、彼はちゃんと食事をしたし、顔色も少しよくなった気がした。
「えへへ、おなかいっぱいです」
大河は疲れた様子だったが、そう言って満足そうに笑った。
「僕はテーブルを片付けてくる。眠っていていいよ」
頬に軽くキスをして、昴はリビングへと戻る。

 

 ちゃんと食べる事ができた。
大河は満足感で心が落ち着いて来るのを感じていた。
本気で取り組めば夢なんてどのようにでも追っ払う事ができると確信した。
吐き気がないわけではないが、実際に嘔吐に至るほどではない。
それならば、この暗闇も払ってしまえるはずだ。
前世の聖がどうであろうとも、大河は視力を取り戻す気だった。

 もう一度昴の顔が見たい。
初めて出会った時に向けられた冷たく美しい表情。
怒った顔。笑った顔。
昴の様々な表情を脳裏に浮かべるのは簡単だったが、それだけでは満足できなかった。
自分達で守り抜いた紐育の街を、また二人で歩きたい。
晴れた日のセントラルパークで、声を出して笑いながらベーグルを食べたい。
心の中の情景に安堵したせいか、それとも胃に食べ物が入ったせいか、徐々に睡魔が襲ってくる。

 

 ふと、目の前が澄んだ青に満たされた気がした。
見上げた先のはるか高い上空からは、せわしないヒバリの声。
すぐ隣には大事な人。

 「昴さん……」
大河は声を出した。いつの間にか昴と並んで草原に立ち、空を見上げている。
だがそれは現実ではなかった。
となりで静かに微笑んでいるのは、大河も名前をしらない異国の少女。
昴の前世だと大河が確信している女性だ。
そして自分はやはり、僧服を着た聖だった。

 「これも夢……?」
呟いてから気がつく。
これは、聖の見ている夢だ。
遠い記憶の中にある前世の自分が、夢を見ている。
夢の中の、夢。

 

 

 「あなたは、ぼくを待っていては下さらないのですか?」
寂しげに聖が問うと、少女はなお悲しい表情で聖を見上げた。
「いつまででもお待ちしておりますよ。ですがそれは、もっとずっと遠い未来であって欲しい……」
「ぼくはすぐにでもあなたにお会いしたいのです」
搾り出すように、懇願するように、聖は呻いた。
「聖様、私はいつまでも待っております」
もう一度、少女はそう言った。
「だからどうか、ご自分を救って差し上げて……」
「自分を?」
聖は自分の両の手の平を見つめた。
「そんな事が許されるのだろうか。あなたをむざむざと失ってしまった私に……」

 少女は寂しげに微笑んだ。
「私はいつでも聖様のお傍におります。失ってなどいません。どうか忘れないで」
「ぼくの傍に……」
聖は見つめていた手の平をぐっと握る。
「共に……」
「はい」

 聖はもう一度空を見上げた。
少女も彼の動作を倣うようにして顔を上げる。
「ではぼくはもう行かなければ。これからもあなたと共に歩むのならば早急に」
「ええ。お腹がすいたでしょう?」
口元に指先を宛がい、少女はクスクスと笑った。
「……またここでお会いできますか?」
「聖様がそう望んでくださるのでしたら……」
その言葉に頷いて、聖は少女を置いて歩き出した。
振り向かず、前を向いて。

 

 目を覚ました聖は自分の頬に触れた。
どうやら泣く事だけは避けられた。
先日見た幻の中で、自分そっくりの幻影はしきりに涙を流していたが、
聖はそんな風に泣く事を恥だと考えていた。
今から同室の旅人に情けない願いを聞いてもらわねばならないのに、これ以上恥の上乗せはしたくない。

 人の気配は確実にある。しかも複数の。
「すいません、どなたか傍にいらっしゃいますか? ぼくは目が見えないのです」
声を出すと、部屋の人々の振り向く気配。応答する声。
聖はなるべく落ち着いた声を出した。飢え死に寸前で切羽詰っているのだとは思われたくない。
「申し訳ないのですが、少しでもいいので水と食べ物を分けていただけないでしょうか」

 

食べられた新次郎。
聖さんもやる気になってきました。

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オートミールが日本人に合わないせいかもしれない。

 

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