ぼくのひかり 君の青空 18

 

 

 昴の自宅に一人残った大河は、時間はかかったがなんとか自力で着替えを済ませ、リビングに向かって歩いていた。
途中何度か体をぶつけたりしたが、壁を頼りに少しずつ進み、机の前まで到着する。
椅子に座って手で探ると、バスケットに乗った朝食に触れる。
それを手元まで引き寄せたは良いが、大河の動きはそこで止まってしまった。

 絶対に朝食を食べるように、と昴に言われていたのでここまで来たが、やはり食欲がなかった。
着替えて動けばいつもの調子が戻ってお腹がすいてくると思ったのだが。
触ってみた感じでは、乗っているのはいくつかのクロワッサンと小さな容器に入ったバターのようだった。
以前に昴の家に泊まったときに食べた物と同じ。

 手にとって、しばし悩んでいたが、思い切ったように口に運ぶ。
あいかわらず味は感じなかった。
以前食べた時は、この世にこんな美味しいパンがあったのか、と感動すら覚えたのに。
そう思っただけでなく、実際に声に出して言ったかもしれない。
あの時、昴は目を輝かせる大河を見て笑っていた。

 以前に昴と一緒にここで食べた朝食のパンは、つやつやに輝いていて、見た目もとてもおいしそうだった。
きっと、今もあの時と同じように光を放っているはずだけれど、
真っ暗な中で一人で食べるパンは、紙を食べているように無味だった。
飲み下すのが辛くて、ひたすらに租借する。
それでもなんとか一つを食べ終えた時には、大河はかなり疲労していた。
どうがんばってもこれ以上は食べられそうにない。
手探りで目の前に散らばっていると思われるパンくずを、可能な限り寄せ集めてゴミ箱を探して捨てた。
本当は拭きたかったのだが、布巾は見つけられなかったから。

 一通りの事を追え、溜息を吐いた時、急激に胸がむかついた。
吐き気が込み上げてきて喉を押さえ立ち上がり、手探りでトイレまで急ぎ足で進む。
ようやく洋式の便器に到着すると同時に、今食べたばかりの物を嘔吐してしまった。
「うっ…ごほっ…!」
何度も咳き込み、胃が痙攣するにまかせて戻す。

 胃の中がからっぽになって、水洗のトイレのレバーを、震える手に体重を込めてようやく押し下げた。
吐き気は収まっていたが、立ち上がれないほど気分が悪かった。
おそらく昨夜の食事もすべて戻してしまっただろう。
上下する胸を押さえ、生理的な涙を拭う。

 大河はしばらくトイレの床に蹲っていたが、落ち着いてくると顔を起こして周囲を汚してしまっていないか点検した。
吐いた事を昴に知られたくなかった。
ただでさえ心配させているのに、これ以上不安の種を増やしてしまいたくない。
念のため何度かトイレを流し、洗面所で口をゆすいで顔を洗う。
胃の中が空っぽになったせいか、先ほどよりもいくらか気分がよくなっていた。
少なくとも立ち上がれないほどではない。
ふらふらと壁伝いに歩いてもと来た道を戻る。

 もう一度寝巻きに着替えたかったが、もうそんな力は残っていなかった。
ベッドの上に倒れこむように横になり、布団を被って丸くなる。
たまらなく寒かった。
「昴さん……」
心細くて悲しい。
小さな子供に戻ったようだった。
強い自分であろうと常に心がけていたはずのなのに、大事な物がくじけてしまいそうだった。
「早く帰ってきて下さい……」
呟いて、ますます小さく自分の体を抱きかかえるようにして、大河はそのまま眠ってしまった。

 

 昴が予定よりもずっと早くに帰宅すると、寝室からは何も応答がなかった。
不安になって返事を待たずにドアを開け、中を覗く。
「大河?」
また眠ってしまったのだろうか。小さな声で呼ぶが返事がない。
ベッドルームへと進むと、案の定、彼は眠っていた。
起こさないように横に腰掛けてそっと髪を撫でる。
ゆっくりとした呼吸。だが、頬には涙の跡があった。気のせいか顔色もよくない。
「一人にしてごめん。僕たち二人とも、明日からしばらく休めることになったから……」
眠ったままの彼に囁いて、静かにキスを落とす。
前日に楽屋で見たようにうなされてはいなかったので、このまま寝かせておいても大丈夫だろう。
よく見ると、大河はパジャマではなかった。
「着替えたって事はちゃんと朝食を食べたのかな?」
リビングに入ってテーブルの上を見ると、確かに大河が朝食を食べた痕跡があった。
ほっと息を吐く。

 昨晩、彼は食欲がないようだったから、もしかして朝食を嫌がるかと思っていた。
精神的にかなり参っているようだったから心配だった。
大河は軍人だったから、精神も肉体もかなり鍛えてはいたが、今回はいつもと様子が違っていたから。
昴は床とテーブルに少しだけ散らばったパン屑を片付け始めた。
きっと、彼も片付けたのだろうが、やはり見えていないせいですべてを清める事が出来なかったのだろう。
いつもの大河だったなら、必ず散らかった食卓は自分で綺麗にしていたのに。
昴が、そんな事はウォルターにまかせれば、と言っても絶対に聞かなかった。
布巾を手に取って、軽く拭いていく。
布はテーブルのすぐ横のカウンターに置いてあったが、これも大河には見つけられなかったのだろう。
綺麗になったテーブルを見るとまた瞼が熱くなってきた。
彼が日常に行ってきた当たり前の事が、今の大河にはとても難しい。
彼自身がそれに気付き、苦しんでいる。

 

 

 大河は闇一色の夢を見ていた。
聖はいまだ山小屋を動かずに、部屋の隅でただじっと座していた。
盲目の僧侶を哀れんだ登山者から何度も食べ物を勧められたがすべて断る。
「それを頂いてしまったら、あなた方はきっと下山する体力がなくなってしまいますよ」
「でもお坊様、それを言うならあなたこそ……」
「大丈夫。ぼくは修行で絶食を何度も経験していますから。ご心配なく」
それは本当だったが、正直今の聖には自分の生命を維持する意味が見出せなくなっていた。
愛する人を己のせいで失って、それでも人の役に立つならと未練がましく生きていたが、目が見えないのでは何も出来ない。
単なる役立たずだ。

 何も出来ないのならば、このままここで尽きてしまっても許されるだろうか。
そう考えると急に心が楽になった。
あの人の元へ行ける。
もう一度会える。
彼女はまた笑ってくれるだろうか
聖は彼女を失ってから初めて希望を見出したかのように、一人静かに微笑んだ。

 

やさぐれ聖さん次々と問題を持ち出す。
大河は困る。

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文字通り泣き寝入り。

 

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