ぼくのひかり 君の青空 12

 

 

 タクシーがホテルに到着し、ドアが開いても、大河は車から降りようとしなかった。
見えないせいで動けないのかと思い、昴は反対側から回って手を差し伸べる。
「ほら、こっちだよ」
声をかけて手を取ると、大河はビクリと震えた。だが動こうとしない。
「どうした……?大丈夫だからおいで」
大河は、今まで見た事がないほどに怯えているように見えた。
緊張したように寄せられた肩が小刻みに震えている。
「心配ない。必ず治る。君もそう言ったじゃないか」
昴は明るい口調で言ってやり、身を乗り出して手を引いた。

 「昴さん……」
「うん?」
「ぼく、やっぱりうちに帰ります」
俯いたまま、だがきっぱりとそう言って、大河は昴の方を見た。
視線は、まっすぐに昴のそれを射抜いていた。
見えているのではないかと疑うほどに正確に。
だが、気丈な態度とは裏腹に、黒い瞳は湖にたゆたう宝石のように濡れていて、そこからつう、と涙が零れてしまう。
「帰らないと……」
口を開くと、ますます涙が零れていく。
瞬きするたびに睫毛が濡れて、目を開くと銀の球になってはじけた。

 「帰っても何も出来ないだろう? 今日何とかできたとしても明日はどうするんだ? ほら、降りて」
強く腕を掴んだが、やはり彼は車を降りようとしなかった。
ひっぱっても腰を浮かそうとしない。
「どうするんですか? お客さん」
いつまでも問答している二人にいらついたのか、リムジンタクシーの運転手は首を後に回した。
昴は黙って規定の料金の倍ほどの金を渡す。
「もう少しだけ待ってくれ」
大河に、余計に金を払った事は知られたくなかった。
静かにしていて欲しいと身振りで示す。
「お願いだ、大河。僕の部屋に行こう」
もう一度、肩に触れる。
「君が心配なんだ。僕の気持ちを想うなら……」
彼を説得する為の嘘ではない。絶対に、帰したりしたくなかった。
そんな事をしたら一睡もできなくなってしまう。

 大河はタクシーの中で逡巡していた。
今昴に甘えてしまったら、目が見えるようになるまで家には帰れない気がした。
昴はきっと、喜んで自分の世話をしてくれるだろう。
だが、そんな状態で甘え続ける事は耐えられない。
それにいつまで盲目の状態なのかは分からなかったが、
少しでも慣れる為にも家に帰ったほうがいいのではないか。

 昴のやさしい声。
肩に触れる、小さな手。
また、守られている自分。
紐育を救うために犠牲になるといったこの人を、死ぬまで守り続けようと誓ったのに。
情けなくて涙がまた溢れてくる。
視力はないのに、涙だけはいくらでも零れてしまうなんて。

 「……頼む大河。僕のために、一緒に来てくれ」
強い意思のこもった言葉。
大河は引かれるままにわずかだけ体を動かした。
それを感じて、昴は間をおかず声を掛ける。
「すぐそこが段差だ。いいかい、今、君の足の裏に触れるから、僕の手が誘導するのにまかせるんだよ」
昴は、大河の片方の靴に触れ、ゆっくりと丁寧に下ろして行った。
少しでも彼が不安に思う要素を取り除きたい。
段差に躓いたりさせたくなかった。
すべてを成功させながら、部屋までたどり着きたい。
昴は慎重に彼の様子を伺う。
もう泣いてはいなかったが、その動きにはまだためらいが見えた。

 「ほら、ここが地面」
声と共に昴の手の感触が去り、固いコンクリートが足に触れる。
「立てるか?」
「はい」
手探りで車のドアの位置を確認し、大河はようやくタクシーから降りる事ができた。
外の空気は少しだけ冷えていて、わずかな風が濡れた頬を冷やした。

 ここは、いつも明るい光で溢れていたはずだった。
たとえ夜間であっても、人々が行き交い昼間のように眩しかった。
でも今は何も見えない。
シアターにいる時は感じなかった恐怖が、徐々に頭を支配していく。

 昴は大河の手をもう一度とって、今度は自分の腕に絡ませた。
「放すなよ」
そう警告してから歩き出す。

 大河が最初に車から降りたとき、昴はその表情を見て、あまり時間を空けてはいけないと悟った。
立ち止まったりしたら、その瞬間にまた帰りたいと言い出すだろう。
彼は不安げに周りを見渡し、改めて見えないことを確認しているようだった。
ドアマンが怪訝そうに自分達を見つめている。
「おかえりなさいませ、九条様、大河様はお具合が悪いのですか?」
彼は大河を知っていたので、ドアを開けながら心配そうに聞いてきた。
「ああ、そうなんだ。でも大丈夫だから、少ししたらウォルターを部屋に呼んでくれ」
「かしこまりました。医師もお呼びしますか?」
医師、と聞いて、大河の体が震える。
触れている場所から彼の鼓動が聞こえるようだった。

 心配しなくていい。
君が嫌なら、無理強いしたりしないよ。
昴は心の中で話しかけ、腕に回された彼の手を軽く叩いた。
「あとで必要になったら考えるから、今は大丈夫だ。ありがとう」
昴がドアマンに断ったので、大河は安堵したように見えた。
だが、まだいくらか呼吸が早い。
「エレベーターの場所、わかるかい?」
落ち着いた声で聞いてやる。
さっきから大河が一言も言葉を発しないので不安だった。
「いえ……」
「どっちの方向か、は、わかる?」
まだ入り口のドアをくぐったばかりだ。
目が見えなくとも、それぐらいはわかるだろう。
見えなくとも君は大丈夫なのだ、と、わからせてやりたかった。
だが、大河は首を振って肩を落とす。

 「そうか、じゃああとできちんと教えてやるから、とりあえず部屋に行こう」
分からなかった事を責めたりはしない。
おそらく、本当は大河にも方向ぐらいはわかるのだ。
ただ、それが違っていた時の事が恐ろしくて答えられないでいる。

 

 

 エレベーターの動く音。
独特の圧迫感。
目が見えない以外の事は、いつもよりも鋭敏に感じた。
腕を回した昴の温もり。
きっと、今も心配そうにこちらを見つめてくれているはずだ。
大丈夫です。すぐに治ります。
ついさっき、シアターで言ったように、もう一度言ってあげたかった。
なんともないんです。目が見えなくても、ぼく一人で昴さんの部屋にぐらいいけますから。
タクシーに乗る前、ホテルに着いたら自分からそう言って部屋に向かおうと思っていた。
少しでも昴に安心してほしかった。それなのに。

 車で移動したらもう何もわからなくなってしまった。
方角も、距離も、時間すらも。
今まで知っていたはずの場所。
本当に、ここが昴のホテルなのかどうかすらわからない。
真っ暗な闇は願っても願っても、一筋の光も見せてはくれなかった。
不安で、恐ろしくて、唇がわなわなと震えそうになって、大河は下唇を血がにじむほどきつく噛み締めた。

 

 

昴さんはきっと、大河が怖くないようにずっと触っていてあげるよ。
そういや日本以外のタクシーって自動でドア開かないんですよね。
確かにちょっと無防備だもんね。

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昴さんは迷わない気がする。

 

 

 

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