ぼくのひかり 君の青空 2

 

 

 星組のメンバーが楽屋へと向かった少し前、大河はサニーサイドから山ほどの書類仕事を押し付けられ、
それに向かって奮闘していた。
サニーに言わせれば後学の為、と言うことだったが、
どう考えても、これからの大河の人生で係わり合いになるとは思えないような、ビジネスライクな仕事だった。
文章を作成するような創造的なものでもなく、
たんなる数字の確認作業。
単純だが、間違えれば大変な事態になりかねない仕事。
まったく畑違いの仕事を押し付けられて溜息を吐く。
今手をつけている書類が最後の一枚だったが、サニーが言うには明日も同量のデスクワークが届くらしい。

 今頃、みんなは舞台で本格的な練習を始めているだろう。
練習を最初から最後まで全部見たかったのだが、他の用事を言いつけられてしまったのだから仕方がない。
せめて午前中のうちに終わらせて、午後はみんなの様子を見たい。
初めて自分が演出に関わる事を許されて、毎日遅くまではりきって勉強していた。
恋人である昴は、大河よりもずっと長くこの世界でやってきた人だったから、求めればいつでも的確なアドバイスをくれる。
口を挟みすぎず、大河自身に考える事を促すような、最適な助言を。
その時の、愛する人の顔と声が脳裏を過ぎる。

 瞬きもせずに数字を睨みつけていた大河だったが、もう一度内容を確認し、溜息を吐いてペンを置いた。
「はー…。やっと終わった…」
最後の一枚を仕上がった書類の束の上に乗せ、背筋を反らして凝りをほぐす。

 ここ数日、舞台の事と、それ以外の事とが原因で睡眠が不足している。
舞台はともかく、「それ以外の事」の方が問題で、一日中その事が気になった。

 

 大河はこの何日か、睡眠を取るたびに夢を見ていた。
それも、きちんと筋道の通った一本の映画のように、長く続く夢、
前の日に見た夢はすべてきちんと覚えていたし、翌日はピタリとその続きからまた夢を見る。
どうしてそんな夢を見るようになったのかわからなかったが、
眠ってもちっとも疲れが癒されず、疲労がたまるばかりだった。

 ソファに背を預けて目を瞑る。
眠ってしまえば、また夢を見るだろうと分かっていた。
ずっと…、ずっと過去の出来事。
夢だけれども、それは幻ではない。
忘れていた子供の頃の思い出が、何かのきっかけで鮮明に脳裏に蘇ってくるように、
朧げではあるけれど、確かな現実感。

 悲しみに暮れながら一人で旅をする遠い日の記憶。
愛する人を失った、例えようもない喪失感。
―高野聖…。
自分であって、自分でないもの。

 何度か深呼吸をすると、それだけですんなりと眠りはやってきた。
深く暗い水底に沈み込んでいくように。

 

 

 

 

 ―聖は一人きりで当てのない旅をしていた。
いつも傍らで静かに笑っていてくれていたその人を失った悲しみが、徐々に体に浸透して来るようだった。

 もうあれから数ヶ月が経っていたが、悲しみは薄れるどころか、日が経つにつれ喪失感が増してくる。
仲間と一緒にいるとどうしてもそこに足りない人を探す自分が嫌で、
共に戦った友人達と別れて一人、旅に出た。

 彼女は聖にとって、少し前までは特に異性として意識したことのない人だった。
かけがえのない仲間として大事な人ではあったが。
だが、あの戦いのほんの数日前から、自分にとっての彼女の存在が少しずつ重要な物へと変化して来たのを感じ始め、
それが聖にはたまらなく恐ろしかった。

 仏門に下った聖には、己の心を惑わす女性の存在は決して安らぐ物ではなかったから。
好意を寄せてくれる彼女を避け、邪険に扱う時もあった。
そんな時の、彼女の悲しそうな顔を思い出す。

 あの時……。
彼女が自分から犠牲になると言い出した時、
聖は彼女を止めたいという自分の感情的な想いを封じ込めた。
「こんな事になって残念です。しかしもうそれしか道は残されていない」
想いとはうらはらに、するすると冷たい言葉が口から出て行く。
叫び出したくなるのを堪え、勤めて冷静に、彼女に執着しようとする己を戒め叱咤した。
それが正しき道なのだ。
世界にとっても、自分にとっても。
他に方法はない。
「あなたが犠牲になることで、世界に平和が訪れるでしょう」
彼女は聖のその言葉に頷き、いつものように、静かに微笑んでいた。

 

 戦いの前に精神を集中している彼女に近づいたのは、生き残る自分への罰だった。
彼女は草木の枯れ果てた荒れた大地に膝をつき、手を組んで一心に祈る。
聖が近づくと、ゆっくりと顔をあげた。
視線は前方に向けたまま、静かな深い声音で語る。
「聖様、見てください。今日はあんなに空が高い…」
言われて聖は空を見上げた。
確かに上空には雲ひとつない青空が広がっている。
「ええ、いい天気です…」
芸のない返事をして、高い位置をさえずりながら飛んでいくヒバリに視線を奪われる。
「ここの所ずっと空は鉛色のままだったのに、最後に聖様と青空が見られた…」
彼女は振り向いて、自分達の頭上に広がった空と同じような、曇りのない晴れやかな笑みを見せた。
「もう何も、思い残す事はございません」

 

 どうして、どうして、自分はあの時、彼女を止めなかったのだろう。
引き止めるなら、あれが最後の機会だったのに。
聖は何度も何度も自問した。
問いかけるたびに答えは違っていて、だからどうしても思考をとめられない。
毎日毎日同じ事を己に問う。
それしか道はなかったのだと結論を出し、
再び問う。

本当にそれしかなかったのか?

卑しい考えに沈む己こそ、犠牲になるべきではなかったか。

 青空を見るたびに心が締め付けられる。
どんな気持ちで彼女は空を見ただろう。
あの日と同じ色を見たくなくて、下を向いて歩く。
彼女が望んだ平和な世界。
青く澄んだ空が、高く、遠く、どこまでも続くやすらかな大地。
だがそれは、聖が望んだ物ではなかった。

 聖が心の奥底で望んでいたのは、彼女がいつまでも隣で微笑んでくれる。
そんなささやかな世界だったのに。

 

 

 

 俯いたまま歩き続ける男の姿が遠ざかる。
誰かが呼んでいる。

 愛情の篭もった、やさしい声。

 大河がここ数日続けてみているのは、高野聖が苦悩しながら旅をする夢だった。
ただ歩き続け、懊悩し、自分を責める。
それ以外にはなにもない。
これが前世の自分が実際に経験した事なのか、それとも単なる夢なのか、本当の所区別は付かなかったが、
彼が愛する人を失った絶望だけはひしひしと胸に迫った。
水面に映し出された朧な絵のように、それはあいまいな夢ではあったが、
悲しくて、寂しくて、眠る瞼から涙が零れるのを感じた。

 ―ああ、また呼んでいる。
眠ったまま泣いている自分を心配しているのだ。
もう、起きなければ…。

 

 目を覚ました時、昴の顔を見て心底嬉しかった。
失っていない。
夢の中の、過去の自分とは違う。
目覚めと同時に呟いた言葉を聞かれなくて良かった。

目が覚めた瞬間、大河はまだ夢に引き摺られたままだった。
「―ぼくが死ねばよかったんだ」
そう、言ったように思う。
昴は前世の事を何も知らないようだから、夢の事は話せない。
隠し事をしているようで心苦しかったが、単なる夢だから、と言うと、昴はそれで納得したようだった。

 

 大河は隣を歩く昴と一緒に屋上へと向かっていた。
寝起きのせいか目が霞み、視界がぼやけている。
痛みはないが、間近にいる昴の顔すらもはっきりとしない。
根を詰めて書類仕事をやりすぎただろうか。
「午後の練習は見学に来られそうかい?」
話しかけてくる恋人に頷く。
「あ、はい。サニーさんのお仕事は終わりましたから。邪魔じゃなければぜひ」
「邪魔な物か。君の演出だろう?きちんと見届けるといい」
昴のやさしい声に、大河の頬がほころぶ。
眠りながら聞いた声と同じ、愛情の篭もった、美しい音。

 エレベーターが屋上に着くと、とたんに眩しいほどの日の光に晒された。
「わっ……」
思わず声をあげ、目を覆う。
「……どうした?」
心配そうに聞かれて慌ててしまう。
「今一瞬、すごく眩しかったから……今日はいいお天気ですね」
「そんなに眩しい?いい天気には違いないけどね……昼寝なんかするからだ」
苦笑いしながら昴は大河の手を取った。
見上げると確かに空はどこまでも青く、はるかな上空を薄い一片の白い雲が霞んでいるだけだった。

 「……っ……」
昴の胸に不意に痛みが走る。
物理的なものではなく、心が締め付けられるような痛いほどの郷愁。
「昴さん?」
今度は大河が昴を覗き込んだ。
「なんでもない……なんだか……懐かしい気がして……」
大河の顔を見返すと、その想いはますます強くなった気がした。
同時に、例えようのない幸福感が体を満たしていく。
「きっと、どこかで見た空と同じ色なんですよ」
「……そうかもしれないな……」
答えて、もう一度空を見上げる。

 こんななんでもない一瞬に、何を興奮しているのだろう。
昴は胸を押さえて呼吸を整えた。
そうしないと感極まって涙が溢れてきそうだった。
どこかで見た空の色…。
たしかに大河の言う通りかもしれない。
そして、その空を見たとき、きっと傍らに大河がいた。
それならば、そんなに昔のことではあるまい。
考えにふけっていると、頭上から心配そうな声が降って来る。
「…大丈夫ですか?」
「ああ、早く行こう、ふふ……昼食が食べつくされてしまうぞ」
昴は息を吐いて顔を上げると、自分達に気が付いて手を振る仲間達の元へと歩き出した。

 

な…なんだか一話が長いです…。

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ただ歩くだけ…。

 

 

 

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