子犬のワルツ 9

 

 さきほど別々に通ってきた道を、今は昴と新次郎、二人で手を繋いで歩いていた。
そんな二人を見上げながら、子犬は楽しそうに新次郎の足元について、一生懸命小さな足を動かしていた。
少年はその様子を興味深げに見つめながら進んでいく。
「なあ、あんた、役者なんだろ?」
「あんた、じゃないですよ!すばるたん!」
「すばるたん?」
「ち…ちがいます!すばるたん…すばる…た…ううう」
新次郎は、本当は昴の事を、「昴さん」と呼びたかった。
自分でも、ちゃんと発音できていない事が分かっているだけにくやしい。
少年に、きちんと昴の名前を敬意を込めて呼んで欲しかった。
「いいんだよ、新次郎。君、僕の事は昴でいい」
「昴さんね…」
「そうですよ!」
ようやく自分の思い通りに昴の名前を呼んでもらえて、
新次郎は満足そうに鼻から息を噴き出す。

 「役者ならさ、金持ってるんだろうし、犬ぐらい飼えると思ったんだけどなあ…」
少年は、当てが外れた様子で両手を頭の後ろで組んだ。
「昨日も言ったけれど、僕はホテル住まいでね。申し訳ないけれど無理だよ」
本当は、きちんと手続きをすればペットの飼育も不可能ではないのだが、
昴にはとてもじゃないが、ペットなど飼っている余裕はなかった。
金銭面ではなく、そのほかの色々な事柄で。

 まず、いつまで紐育にいられるのかわからない。
大河がここに留まる限りは、自分も一緒にいたいと思っていたが、
いつかは出て行く事になるだろう。
それが一年後なのか、十年後なのか、はっきりとした事はわからなかったが、
ペットの生涯を通じて責任を持てない事は確かだ。
それに、戦いが始まってしまえば、極端な話、いつ死んでしまうかもわからない。
今現在の問題で言えば、新次郎の世話だけで手一杯だった。
ただでさえ仕事中に、やむをえずサニーサイドに預けたりしているのに、
他の何かを世話するなんて、まったくもって不可能だった。

 「おにーちゃんのおうちは、きっとゆきちゃんをかってくれますよ」
新次郎は確信を込めてそう言った。
「そうかなあ…」
「そうですよ。だって、にゃんこはまだきていないんでしょ?」
「だけど、貰ってくるって言ってたからな…」
少年がぶつぶつと文句を言っている間に、並木の陰から彼の家が見えてきた。
「あ、すばるたん、あそこがおにーちゃんのおうち」
昴は頷いて、後を歩いていた少年を見た。
「もしもダメだったら無理をしなくてもいいんだ。今シアターで飼い主を探しているから…」
無理強いして飼育の許可を取っても、この犬の処遇が悪くなるだけだ。
望んで貰われて行って欲しい。
新次郎のためにも。
昴は自分を見上げて心配そうな新次郎に微笑んだ。

 昴は少年を先に促して玄関に立つ。
「んじゃ、頼んでみるけどさ、ダメでも俺のせいじゃないぞ」
「わかっている」
少年が玄関のドアノブに触れたか触れないか、その瞬間、内側から勢い良くドアが開いた。
「捕まえた!もう逃がさないわよ!」
「わああ!かあちゃん!」
若い母親は少年の首根を掴み、続けて目の前に立っていた昴に気がついて止まる。

 数瞬の間に、彼女の顔は真っ赤になってしまっていた。
「きゃー!ごめんなさい!お客様だって気がつかなくって!」
捕まえていた少年を放り出してエプロンで顔を隠す。
「…いや…いいんです。急に訪れたのだし…」
昴は笑いを堪えるのに苦労した。
子供を一人で遊びにやるなんて、どんなすさんだ家庭かと思っていたのに、
彼女は予想よりもずっとかわいらしい、少女のような人物だった。
どうやら少年は自分で勝手に家を抜け出しているらしい。

 「おねーちゃん」
新次郎は少年の母親をまっすぐに見つめてそう言った。
「え?!」
「はぁ?!おねーさん!?」
同じ色の髪をした親子は驚いて小さな子供を見下ろした。
「ぎゃはははは!ねーちゃんにみえるかこんな…ぎゃっ」
とたんに、ゴツンと小気味良い音が響き、少年が黙る。
「虐待だぞ!」
「手加減してやったんだから、感謝しなさい!おほほ、ごめんなさいね、どうぞ、おうちに入ってくださる?」
新次郎はびっくりして固まっていた。
「いや…おかまいなく…それよりも…」
昴は少年をチラリと見た。

 「まあ、また何かこの子が何か悪さでもしたのでしょうか…」
「ああ、違いますよ、実はこの犬を…」
新次郎は昴の視線を受けて、子犬を抱き上げた。
「まぁ、かわいい!!素敵なわんちゃんですね」
「昨日はネコが欲しいって言ってたジャン…」
「猫も欲しいけれど、犬もかわいいわ」
親子が言い合っているのを、昴は黙って見守った。
互いに言いたい事を言い合っているが、相手を尊重している様子が伺えて微笑ましい。
特に母親は、この活発な少年をあしらうのを楽しんでいるように見える。

 「それで、この犬は捨て犬なのですが…もしも良かったら…」
「捨て犬!?こんなに真っ白で綺麗なのに?」
彼女が手を伸ばしたので、新次郎は昴の顔を見上げた。
昴が頷くのを確認し、躊躇いながらも子犬を彼女へと渡す。
「昨日は汚れていたんですが、あなたの息子さんが洗ってくれたんですよ」
昴は微笑みかけた。
「え!?この子が!」
それは相当意外な出来事だったようで、彼女は子犬を様々な角度から見て確認していた。

 昴はかいつまんで昨日の出来事と今朝の事件を話した。
少年が弟を思いやって子犬を連れて帰ったこと。
飼う事を断念して、代わりに子犬を綺麗に洗ってやったこと。

 その間、新次郎はずっと、心配そうに少年の母親の腕の中の子犬を見つめていた。
子犬も、新次郎をじっと見つめていた。
飼ってもらえれば、もう、これでお別れなのかもしれないという思いが込み上げてきて、
嬉しいはずなのに悲しくて、どうしたらよいかわからなかった。
話を続ける昴に抱きつく。

 「そうだったの?昨日言ってくれれば良かったのに…」
「あんな状況で言えるわけないだろ!」
母親は抱いていた子犬を自分の息子に渡して微笑んだ。
「犬、前から欲しかったんです。猫も増えちゃうかもしれないけど…」
しゃがみこんで新次郎の頭を撫でる。
「大事にするから、貰ってもいいかしら?」

 新次郎は彼女の瞳をじっと見つめた。
ジェミニよりもいくらか濃い、紺色の瞳。
コクリと頷いて、急いで昴の足の影に隠れる。
「ありがとう、ちゃんとかわいがるからね」
「よかったな、新次郎」
昴は新次郎の気持ちを考えると複雑だった。
飼ってくれる人をずっと探していたし、
そのためにシアターを脱走までしたのに、やはり、子犬と別れるのは相当辛いだろう。

 「ちゃんとお礼を言わないのかい?」
昴が促すと、新次郎は鼻をすすりながら出てきた。
その場にいる全員を見渡して、ぺこりと頭をさげる。
「おねーちゃん、おにーちゃん、ありがとうございます…」
続けて、少年の腕の中の子犬をじっと見る。
「ゆきちゃん、ばいばい…」
「あら、もう名前があったの?」
首をかしげる母親に、昴は新次郎を抱き上げて微笑んだ。
「いえ、どうぞ、お好きな名前を付けてやって下さい」
名づける事によって愛着が増すものだ。
彼女は何事か考え込んでいたが、昴は一礼するとその場を立ち去った。

 新次郎が名前をつけた犬は、遠ざかっていく二人を見て、切なげに鳴いた。
甘えたように鼻を鳴らし、いかないでくれと懇願する。
「まあ、悲しいのね、大丈夫よゆきちゃん」
犬の頭を撫でてやり、名前を呼ぶ。
「大事にしてあげるから、そんなに悲しまないで」
「名前、そのままにするのか?」
「その方がこの子も安心するでしょ?」
親子は頷きあって、彼らが去って行く様子に視線をやった。

 「ねえ、今の人って、もしかしてお母さんの知ってる人だったんじゃない?」
母親は、子犬を抱いたまま、去っていく人物をじっと見送りながら、息子に向かって問いかけた。
「知ってるだろうな。部屋にポスター貼ってあるしな」
「やっぱり!?いやーんもう!ありえないと思って普通に話しちゃった!どうしよう!」
彼女はシアターに頻繁に通う昴のファンだった。
ただ、劇場で役者として踊る昴しかしらず、その上人を寄せ付けない雰囲気の人物だと聞いていたから、
目の前のやさしげな人が、自分の大好きな役者だとはいま一つ信じきれなかったのだ。
「犬が育ったら見せに行けばいいだろ」
少年は身もだえしている母親を置いて子犬と共に家へと入った。
事の発端である弟に、見せてやるつもりだった。

 

 新次郎は、昴の肩越しに、角を曲がって見えなくなるまで、白い犬と、その飼い主になってくれた家族を見つめていた。
「えらかったな、新次郎」
昴に声をかけられて、細いその肩に強くしがみ付く。

 昴は黙ったままくっついて離れようとしない新次郎をやさしく撫でながら歩いていた。
別れを経験するには、まだ少し早すぎる気もした。
ほんの半日一緒にいただけだったが、
新次郎はあの子犬を大事にかわいがっていた。
今まで一度も破った事のない言いつけを守らずに、勝手にシアターを飛び出したぐらいだ。
子犬の方も、なぜか昴や少年よりも、新次郎を頼っているように見えた。
「大丈夫。ゆきちゃんは、きっと幸せになるよ」
慰めではなく、確信を込めて言う。
あの母親や、活発そうな男の子は、きちんと世話をして、いい遊び相手になってくれるだろう。
「新次郎はすごく良い子だったよ」
そう言ってやると、しがみついていた新次郎がますます強く抱きついてきた。
ときどきしゃくりあげ、声を出さずに我慢しながら泣いているのが分かった。
こんなに小さいのに、幸せな別れに泣いてはいけないと知っているのだろうか。

 しばらくそうしていたが、やがて新次郎は落ち着いて、自分から昴の腕を降りようとした。
昴が下ろしてやると、真面目な顔で見返してくる。
「すばるたん、ごめんなさい…」
「…うん?…そうだな、そういえば悪い事もしたんだった」
苦笑してしゃがみこみ、目線を同じ高さへと持っていく。
くしゃくしゃと頭を撫でて顔を覗き込むと新次郎は神妙な顔をした。
「おしりぺんぺんですか?」
真剣に聞いてくるので、昴は噴き出しそうになった。
それはぜひやってみたい。
大人に戻った時の大河に、尻を叩いて叱ったのだといったら、どんな反応をしめすだろう。

 昴は人差し指で、新次郎の額をぱちんと弾いた。
弾かれたおでこを両手で押さえ、新次郎は瞬きをする。
「おしまい?」
「おしまいだよ。さあ、帰ろう」
お尻を叩いてお仕置きをすると言う誘惑はかなりの物だったが、
正直に言って、新次郎を叱る気持ちがすっかりなくなってしまっていた。
それよりも、もっと、沢山褒めてやりたかった。
子犬を助ける使命に燃えて、シアターを脱出するのはきっと楽しかっただろう。
椅子を運んでエレベーターに乗り込んで。
公園ではまんまとジェミニとラリーから逃げおおせた。
最後にはきちんと目的を果たして、子犬の飼い主を見つけてやったのだから。
あとでその冒険の一部始終を聞き出したい。
昴は新次郎の暖かな手をしっかりと握って歩き出した。

 

 

 

甘やかしてはいけませんよ昴さん。

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でかい方。

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