いつかこの街で 7

 

 昴はテラスでレニとコーヒーを飲んでいた。

 もともと昴は一人でそこに座っていたのだが、馴染みのある銀の髪が視界に入り、思わず視線を反らしてしまった。
なんとなく気まずい。
けれどもレニの方はそんな昴の様子を知ってか知らずか、気にする様子もなく近寄って来る。

 「昴……。君は相変わらず困った人だね」
憮然とした顔の古い友人を見て、レニは静かに微笑み、両手に持ったコーヒーをテーブルに並べて、自分も椅子に腰掛ける。
「はい、どうぞ。今もブラックが好き?」
「何か用事でもあるのかい、レニ・ミルヒシュトラーセ」
昴はそっけなく言うと、旧友の色素の薄い瞳をじっと睨み据えた。
睨まれた方は平気な顔をしている。
「別に……。たまたま通りかかっただけ……」
「たまたま二つコーヒーを持っていたのか?」
「うん。二つ飲むんだ。寝る前にね」

 軽やかに返事を返されて、昴は気が緩んでつい笑ってしまった。
「君は変わったな、レニ」
「変わる……。そうだね、多分、変わったんだ……」
レニは持ってきた琥珀の液体を見下ろし、自分の内部を吟味しているかのようにしばしの間、目を閉じた。
「でも変わるって、なんだろう。……君はどう思う? 昴」
「僕にもわからない。でも周囲はみんな、僕が変わったという」
帝都に来て、まず織姫に言われた。
紐育では、サジータにもラチェットに言われた。
彼女達はみな一様に、複雑な笑みを浮かべてまるで祝福するような口調で言う。
変わったね、昴。と。

 「自分ではわからない?」
「いや、わかるよ。前とは違う。でも日本に来て、少しだけれど以前の僕に戻ってしまった気がするんだ」
嫌な感じだ。
感情のいくつかが抜け落ちてしまったような苛立ち。
「……大河少尉は良い人?」
唐突に恋人の事を聞かれて昴は瞬きをした。続けて顎に手を当てる。
「良い人?  そうだな……素晴らしく良い人間だよ。あんな奴は他にいない」
屈託のないまっすぐな瞳を始めて見た日を思い出す。

 あの頃は随分と楽な人生を歩んでいたのだと思う。
考えなければいけない幾つもの事を放棄して、必要最小限の感情だけで生きていたのだから。

 レニと昴はお互いの考えに沈みこんだかのように黙った。
二人とも沈黙が嫌いではなかったので、違和感もなく静かな時間が過ぎていく。
お互いに相手が前とは違う事を知っていたし、それが良い変化であると言う事もわかっていた。
無言のまま時間を過ごすうちに、波立っていた昴の心も穏やかになって行った。

 昴は、あまり感情を表に出さないこの古い友人が、何のためにここに来たのかを考える。
そして今、彼女はまんまと目的を達してしまったようだった。
策略に乗って、心を静められてしまったのは癪だったが、嬉しくもある。
「……やはり、君もそんなに変わっていないかもしれないな。レニ」
昴は楽しげにそう言った。
悪い意味で言ったのではない。
「昴、君だって根本は同じ。元々持っている物を、使うか、しまいこんでいるか、その違いだけ。昴は昴のまま」
「大河みたいな事を言う」
昴の恋人は、昴の何が変わったのかわからないようだった。
昴さんは昴さんです。
そう言って、いつも不思議そうな顔をする。

 「あ、あの……、昴さん……」
二人の会話はおずおずと話しかけてきた声で途切れた。
階段を登ってきたのはさくらだった。
大河の部屋で昴を待っていたが、なかなか待ち人は現れず、不安な気持ちばかりが募ってじっとしていられなかった。
部屋で待っていて下さいと、大河は言っていたし、本当は昴も怖い人ではないと聞いたけれど、
それでもやはり本能に直接訴える、圧倒的な力の差が恐ろしかった。
いつ来るか、いつ来るかと、ドキドキしているとますます落ち着かないので、自らこうして昴を探しに部屋を出ることにした。
探していた人物は、レニと一緒に休憩していたようだった。
昴と二人きりで対峙する事にならずにすんで、少しだけ安堵する。

 「……何か?」
「良かったら、少しお話してもいいですか?」
「少し、ならね」
昴の態度はどこまでもそっけなく、さくらはなんとなく腹が立ってきた。
そもそも自分がこんなに下手に出る必要はまったくない。
「少しです!」
大きな声で思い切りよく言うと、昴とレニの中間にあった椅子を音を立てて引き寄せ、どっかと腰掛けてしまった。

 昴は興味深げにさくらの態度を観察する。
「君はもっと清楚な人物だと聞いていたが?」
「相手の方によります!」
「ふふっ、そうか」
昴は楽しげに声を出して笑った。
その様子にレニとさくらは顔を見合わせる。
昴が大河の前以外で、こんな風に笑っているのを見たのは初めてだ。

 「少しなんだろう? ほら、どんどん時間が過ぎてしまうよ」
あっけにとられたような表情のまま話を初めないさくらに、昴は手を広げて会話を促す。
「あ! え、ええと、あの、うーん……それじゃ、紐育のこととか、聞かせてください」
「なんだ、もしかして話の内容も決まっていなかったのかい?」
「だって、お話って、そういうものでしょう?」
「……ふむ……。確かに、そうかもしれないな」
昴は扇を畳んだまま口元に宛がった。

 さくらは正しい。
大河と話す時、前もって何を話すか、などと考えた事なんかない。
紐育で気心のしれたみんなといる時だってそうだ。
「……紐育は雑多な街だ。人間も、言語も、思想も、建物も。……なにもかもが……」
昴はいまや故郷とさえ思える場所を、脳裏にはっきりと思い浮かべながら語った。
「一つの街なのに、沢山の国の集合体なんだ。金持ちも貧乏人も、同じようにあそこで……」
もうすぐ帰る、あの場所。
愛する人に出会った街。
その人と一緒に帰るのだ。
気がつけばレニもさくらも興味深げに耳を傾けている。

 「ああ、そういえば……」
「なんです?」
「この内容じゃ少しの時間じゃ足りないが?」
「かまいません。昴さんさえよければ」
「うん。……ボクもかまわない。……聞かせて欲しい」
昴は頷くと、再び語り始めた。
紐育の事を誰かに話すなんて始めてのことだったが、思いのほか語りたい事があった。
あとからあとから言葉が溢れて、話しても話しても物足りなかった。
聞いている二人も真剣な表情で昴の言葉を聞いていた。
昴の声はとても美しく、話しそのものが歌のように感じていた。

  

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あの声で語られたら大変です。

 

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